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こころん

旧 りんごの小部屋

「○○障害」探しは止めた方がいい

日記

今やメンタル疾患は「~障害」だらけ。

気分障害発達障害、パーソナリティ障害、

不安障害、解離性障害・・・

 

かつては僕も自分が何障害に当たるのか

必死で探し求めたものです。

苦しみや生き辛さの原因が知りたくて。

それを治す方法が知りたくて。

「得体の知れない苦痛」の正体が

何らかの「病気」であれば

「病人アイデンティティー」が確立できて

多少気が楽になるのも本音でした。

 

そして調べれば調べるほど

自分が該当する「障害」は増えていく。

メンタル疾患領域はスペクトラム的というか

広がりを持った概念なのでいくつも重なり合います。

生育暦などのバックボーンは人それぞれだから

ある意味「人の数だけ」その領域が定義され得ます。

だから自分はA障害にも当たるしB障害にも当たる・・・

となっていくのは理の当然です。

 

A障害に当たると認定したら次はどうするのか。

問題はそこです。

糖尿病ならインシュリンとか

近眼ならメガネとか「対策」があれば

「疾患名」で分類することに意味があります。

でもメンタル疾患の場合は

「自分はなるほどA障害なのかぁ・・・」として

その次の"二の矢"がない。

それは治せる病気じゃなくて『個性』だから。

それが生き辛い個性なのだというのならば

結局「うまいこと世の中と折り合いを付けていく」

しかないんです。

 

寝込んでる当時、

僕もそんなことを言われて、

当時の僕は烈火のごとく怒ったのを覚えています。

神経伝達物質の異常からくる『脳の病気』なのに!」と。

 

でも寛解した今、

それは間違いだったと明確に言えます。

 

セロトニン仮説というものがあります。

神経伝達物質の分量を加減して

ストレッサーに対抗するというのは

目的と手段を完全に取り違えています。

誰だって殴られたら痛い。

痛いと感じるのが神経伝達物質によるものだから、

「殴られても薬で痛みを感じない体になろう」

というのがセロトニン仮説です。

ある意味「呑んで忘れよー」理論です。

その程度なのにお金払って病院に行っている。

 

殴られて痛みを感じるのは当たり前で

病気なんかじゃないんですよ。

普通の人が10痛いところ

1000痛いというのなら

薬で痛感を鈍くする『治療』にも

それなりに意味はあるけれど、

根本的には実際に「殴られる」頻度を

具体的に減らさないといけない。

それは病院での「治療」じゃなくて

自分がおかれた環境での生きる工夫。

ブラック企業・ブラック家族から逃げたり、

ナメられないよう勉強したり、

疲れないように身体を鍛えたり、

飲食物に注意したり。

 

繰り返しますが

お酒や薬で辛さを「ごまかしながら」

「うまいこと世の中と折り合いを付けていく」

それしかないんです。

 

A障害にしろB障害にしろ、

疾患名を付けて

病院で行われる「治療」というのは、

前段の「ごまかしながら」の部分だけ。

でも大事なのは後段の

「うまいこと世の中と折り合いを付けていく」こと。

どうやって生計を維持するのか

具体的に解決していかねばなりません。

 

例えば両親に愛されなかった、

見捨てられないよう必死だった、

そうした過去は今更変えようもなく、

そのことは病気でも問題でもないです。

問題なのは現実社会に適応できないことで、

そうした自らの歴史・個性を抱えながらでも

現実に適応するスキルを積み上げることが

何より重要です。

 

キツイ言い方になるけれど

自分が何障害に当たるのかという

「疾患名探し」に躍起になるのは

歩く「杖」選びに夢中になっているだけで

「歩こう」としないのと同じ。

具体的な問題解決を先送りにする

「言い訳材料探し」になるだけです。

自分は○○障害だからできないんだと。

 

辛かろうが苦しかろうが

杖を突きながら糧を得て

生きていくしかないのです。

 

ただこの酷すぎる世の中、

折り合いを付けられる人のほうが『病気』で

生き辛さを抱えて苦しむ人の方が

『正常』なのかもしれないけどね・・・。